“2130試合連続出場”ルー・ゲーリッグの不滅の記録は永遠と破られないだろうと誰もが思っていました。 1960年、ゲーリッグが亡くなって19年後にメリーランド州で産声を上げたリプケン。 小さい頃から地元オリオールズの大ファンで、1978年のドラフト2位指名で大ファンのオリオールズに入団しました。 2年間はマイナーでプレイし、3年目1981年8月10日にメジャー初昇格し、初出場は代走でのメジャーデビューでした。 そして前人未到の記録は1982年5月30日から始まりました。この年リプケンは打率.264、28本塁打、93打点の活躍で新人王に輝きました。 翌1983年は打率.318、24本塁打、102打点、211安打の大活躍でチームを13年ぶり3回目のワールドチャンピオンに導くと、リーグMVPにも輝きました。 1987年にはリプケン・シニアがオリオールズの監督に就任し、弟ビリー・リプケンがメジャーに昇格、兄がショート、弟がセカンド、父が監督と、メジャー史上初の親子3人が同一チームでプレイしました。 打撃もさることながら、1990年には95試合連続無失策をマークするなど、守備でも安定感抜群で、1991,92年にゴールドグラブ賞も獲得しました。 大型遊撃手として今までの概念を変えたリプケン。連続試合出場も着々と積み重ねて行きます。 しかしその連続試合出場に最大のピンチが訪れます。1994年8月12日、選手会側とオーナー側との労使交渉の対立により、メジャーリーグはストライキに突入しました。この時点でリプケンの連続試合出場は“2009”でした。 ストライキが長引き、1995年シーズン開幕も危ぶまれると、オーナー側は代替選手でシーズン開幕を強行しようとしました。 しかしボルティモア市議会は、スト破り選手を起用したゲームを行うと、「1試合につき1000ドルの罰金をメジャーリーグ機構に課す」という、いわゆる“リプケン法案”を成立させ、リプケンの記録への挑戦を後押ししました。 結局オーナー側が歩み寄り、プロスポーツ史上最長の“232日間”のストライキは、1ヶ月遅れの1995年4月27日に再開されました。 そして1995年9月5日、地元オリオールパーク・アット・カムデンヤーズで、ルー・ゲーリッグの“2130試合連続出場”に並ぶと、翌9月6日にアイアンホース(ルー・ゲーリッグ)の記録を更新しました。リプケン自身2試合連続本塁打で、偉業に自ら祝砲を上げました。 リプケンの前人未到の記録は、1998年9月20日、自らから申し出て、“2632試合連続試合出場”でストップしました。 打撃タイトルにこそ無縁でしたが、MVP2回(1983,91年)、ゴールドグラブ2回(1991,92年)、1983年から2001年まで19年連続オールスター出場、オールスターでも2度のMVPに輝きました。 サードでデビューし、すぐにショートへコンバート、1996年途中から再びサードへコンバートされたリプケン。最後のオールスターとなった2001年でもサードとして出場しましたが、アメリカンリーグ、ジョー・トーレ監督は、ショート、アレックス・ロドリゲスをサードに回し、リプケンを1イニングだけショートで守らせました。 2001年9月11日、アメリカでは同時多発テロが起こり、メジャーリーグも1週間中止されました。 2001年10月6日、地元オリオールパーク・アット・カムデンヤーズでオリオールズ一筋、21年間のメジャー生活にピリオドをうったリプケン。現在のメジャーリーグで連続試合出場にこだわる選手は少ない。おそらくこの前人未到の記録に迫れる選手も当分現れそうにない。 |
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カル・リプケンjr/生涯成績 | |
試合数 | 3001 |
安打 | 3184 |
本塁打 | 431 |
打点 | 1695 |
盗塁 | 36 |
打率 | .276 |
遊撃手、三塁手、右投右打 | |
1981-2001年 (現役) | |
1960.8.24-(生涯) | |
2006年殿堂入り予定 |
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